2009年の元旦にツイッターのアカウントを作ってから16年が経った。幸いなことに凍結させられることも無くまだアカウントは生きている。ただ、もう以前のように日常的に呟くような使い方はしていない。
以前にこんな記事を書いてからだいたい5年くらい経った。この間にTwitterはXに変わり、いろいろな機能が追加され、いろいろな物が失われていった。
ツイッターを見たくない、ツイッターに投稿をしたくない、でもインターネットのどこかには書きたいという気持ちから、Mastodon(Fedibird)やMisskeyのいくつかの鯖に居を構えるなど転々としてきたが、現在はBlueskyに居着いている。Blueskyにアカウントを作ってたのはちょうど2年前だが、メインに使い出して1年半くらいになった。
別の場所でまたSNSをやり始めて感じたのは、現代のSNSに大事なのは「見たくないものを見ない権利」があるかどうかなんだということだ。
Twitter黎明期は「あんな情報も知りたい!」「こんな界隈にいる人も見てみたい!」と、見たいものを集めてくることが大事だった。でも、Twitterが一般化して猫も杓子もアカウントを持ち、テレビのニュースや飲み会での陰口みたいなものの割合が増えてきた今、自分が不愉快だと感じるものをいかにしてシャットアウトするかが重要になった。不愉快なものばかり見ていると精神に異常を来す。
声がデカいだけの知らない人間とそれに反応する有象無象が押しつけられるようになってきたこと、ブロックしてもミュートしても興味無いとしても次から次へとそんな地獄が運び込まれてくること、そして運び込まれる地獄に感化されてフォロワがインターネットバトルの化け物になってしまうこと、こんなにも見たくないものが溢れていたのかと思わされた。
見たいものだけ選んだはずのタイムラインに挟み込まれる不愉快な広告や、投稿ごとにギラギラ光るステッカーの山も見たくない物の一種だ。
見たくないもののために見たいものをが流れてくる場所を捨てるのは勿体ない気もするが、そうすることで得られる精神の安定が一番大事だ。
Blueskyにも過激な発言をする界隈はいるが、それを増幅するような仕組みが無いので遠ざけておくことができる。ミュートやブロックすれば目の前に出てくることは無いし、モデレーションの設定も詳細に出来て情報の入力をコントロールしやすい。それは、「見たいものを集めづらい」ということの裏返しであり、当初のSNSの理念に反するものであるが現在のSNSの地獄を踏まえれば仕方が無いことであろう。
そもそも「SNS」らしい自分の居場所を作り上げるには情報のgive and takeを継続することが必要である。好きなものや趣味の話を発信し続けていれば、少しずつ同じことに興味を持つ人たちが集まってくる。Twitterだってそうだったはずだ。Blueskyに流入した人たちが自分から何も発信せずに「欲しい物が無い!」と文句を言う姿を吐くほど見たが、情報が与えられる物だと思ってるならテレビでも見ていればいい。
そんなに「見たくないもの」に労力を割くくらいなら、SNS自体止めたらいいのではというのは正論である。SNSはクソだし、SNSやってる人間は自分も含めてカスだと思っているので今すぐやめたいのだけどいきなりやめると死にそう、それなら死ぬまでの間は少しでも空気が綺麗な青空の下で過ごしていたいよね、そんな感じ。